夢・光・音

日々の生活の中で生まれてくる想いや感情を詩や文章などで吐き出そうと思います

どうで死ぬ身の一踊り

久しぶりに1日に2本目の記事を書く。書かずにはいられない何かがあるからだ。

 

どこかで書いたかもしれないけれど、私が文章を書く一番の理由は高尚なものを創造したいや社会の役に立ちたいなどではなく、ただ単に書かないと精神を保てないからだ。周りに迷惑をかけることになるかもしれないし、自らを殺すことになるかもしれないから、苦肉の策で始めた部分もある。それが始まりで、今も続いているけれど、本質的な問題が解決したわけではない。生きづらさだ。

 

そして、そういった生きづらさは障害などがある私固有のものかと若い時は思っていたが、実際はいつの時代も普遍的にあるものだし、そして同時に今の時代の人々が共有する固有の病でもあると思う。

 

最近至る所で耳にするサイレンは実際には身体的な外傷や内臓系の疾患に対処する為に救急車が向かっていたりするのだろうけれど、私には現代人のこころのSOSに感じる。とにかくみんな虚しくて、渇いている。それはリア充と呼ばれている人もそうだ。飾り立てれば立てるほど空虚で、それを埋めてくれるものは本当の意味ではあまりない。生活は豊かで便利になったはずなのに、こころは痩せていくばかりだ。「死にたい」なんて言葉もよく耳にする。きっと本当のコミュニケーションが減ったからだ。

 

西村賢太って作家がそうだったように、私もそろそろ自分を守ってばかりいずに、捨て身で「漢」になっていきたい。

徐々に見えてきた

昨日定期的に行く出版社に行って、編集者と話をした。書き始めた小説は序盤で、テーマを模索しているところだが、徐々に戦う相手が見えてきた気もする。編集者はもうすぐ定年で時代感覚を共有できていないからこそ、彼にそこまで見えてなくても、自分には痛切に感じるものがあるなぁと思った。

 

上の世代からすれば、自分達やその下の世代は恵まれているということにはなるだろう。世界的に見ても日本は平和で恵まれているということにはなるだろう。でも、生きてきて、21世紀の日本で生活していて、感じることや耳にすることはそんなにポジティブではないと思う。

 

体面を装っても、そこはかとない底知れない絶望感があって、精神的には救命病棟24時みたいに絶えずナースコールが鳴っている。それが日本の現実だと思う。教育も綻びを誤魔化しきれなくなってきていて、中でも愛情の問題は深刻だ。

 

世界規模で今までの世界の在り方を疑問視する声が上がり、テクノロジーの進化やIT革命は人類の幸福には必ずしも繋がらなかったようだ。紛争や分断はますます広がっている気がするし、みんなどこか諦めムードだ。それが自分なりに解釈する現代の空気感だ。

 

現代の問題を真正面から捉えて、救いの物語を提示していきたい。

 

 

聴くとか見るとか感じるとか

こんにちは!

 

お疲れ様です。

 

最近考えていることはその人が世界に見ているのはその人自身の反映でしかないということだ。

 

曇った眼鏡で見ていたら、どんな景色も汚れて見えるし、その人の美的感覚が貧しかったら、くだらないものを素晴らしいと崇め立てるようになる。

 

今の世界は情報が多すぎて、うるさすぎて、みんな平静じゃいられない。だから、こんな時こそ自分はこころを静めて、こころの声や本当の音を聴いていきたい。本当のことというのは感覚を研ぎ澄ませていれば、自ずと見えてくるはずだから。

伝わる言葉

言葉というものを発する時に独り言でもない限りは伝えるということは一番の目的だろう。伝える為にはどうやったら伝わるかということを考える必要があるだろう。

 

ただ意外だけれど、人に何かを伝える時に意図したようには伝わらないけれど、それ以上に本当のことが伝わっているということは多いと思う。だから、細かいこととか小手先のことにはこだわらずに、長い目で見て、本当のことが伝わっていけばいいと思っている。

 

誤解されることや嫌われることがあったとしても、こちらがドンと構えていたり、正直に誠実にしていれば、やがて本当のことが伝わっていく気がする。それに人間関係では相手側の問題も半分位はあるのだから、必要以上にクヨクヨするべきではないのかもしれない。

 

時に不安になったり、臆病になったりもするけれど、自分の道を信じて、これからも歩んでいきたい。

本当の言葉は通ると信じている

本当に言わない文化というのはクソだと思う。みんな思っているのに言わないというのは本当にヒドいことだと思う。それは今や子供や若者に対してすらそうだ。

 

本当はみんな思っているのに誰も言ってあげない。トラブルや面倒臭い目に会いたくないからだ。それじゃ人間は育たない。自分は今までいろいろな人に言われてきたから、育てたと思う。

 

風潮がそうなっている。社会の仕組みがそうしている。誰も厄介な目には遭いたくない。でも、自分は言っていくつもりだ。

歩み

こんばんは!

 

お疲れ様です。

 

自分は最近ボチボチです。いろんな人間関係も増えて、気を遣うことも増えたけれど、なんとかうまくやっています。年齢的にも(37歳)下の世代と向き合うことも増えてきて、ジェネレーションギャップを感じることも多いけれど、ギリギリのところでバランスを取れています。

 

中々うるさく言うだけではダメだと思うし、言うべきことは言わなきゃいけないという気もする中で日々葛藤しています。本当は若者も叱られたいなんてことも最近ではよく耳にするし、ただいざ率直に言ってみたりすると、大幅に嫌な顔をされるなんて経験は今の大人はみんなあるのではないでしょうか?

 

どんどん時代も変わってきて、ついていけない部分もあるけれど、礼儀や伝統のような(古き)良きものというのは根強い気がします。大変な時代でも大切なものは見失わずに日々歩んでいきたいです。

私は私だ。

あまり考えずに書こう。

 

私は私だからだ。

 

現代において、生活は空虚で、リア充と呼ばれている人も本当は虚しさを抱えているだろう。どうしようもない孤独感が住居を支配し、こころまで蝕んでいく現実は地域に関わらず、先進国では当たり前に見られる現象だろう。

 

極端な事はそれが善意から為されることであれ、誤解される元だから、皆慎んでいる。ネットニュースやSNSでは悪意のある情報が蔓延していて、その影響下からはどんなに知性的な人であれ、逃れることはできない。

 

すれ違いや誤解が元で、人間関係は修復できなくなっているから、愛想笑いとは対照的に互いに無関心だ。

 

街ではどこかから叫び声や下品な高笑いが聴こえ、私達はそれにも慣れてしまった。Z世代にとっては礼儀や謙遜も古いものなのだろうか?

 

作家というのは世界をポジティブに捉えようとする仕事ではなくて、現実が悲惨なものであれ、正確に捉え、その上で偽物じゃない希望を見出だせる人のことた。気休めじゃどうにもならない現実が鎮座していて、私はそこから逃げることは許されていない。

 

戦う相手が見えてきた気がする。頑張る!