夢・光・音

日々の生活の中で生まれてくる想いや感情を詩や文章などで吐き出そうと思います

5月の風

今日も草むしりをやったり、自分の作品を読んでいました。

昨日は三作目を読み終わり、今日は二作目の詩集を読み終わりました。

自分の中で、二作目を創っている時は好きだった仕事を体調不良でやめたぐらいの時の前後だったので、どうしても沈んでいるというか暗い作品というイメージがあって、実際作品の中のいくつかの詩は絶望というか暗闇が描かれていて、自分でも複雑な想いの中で、創作と出版をしたという思い出があります。

ただ今日読み返してみて、思いのほか私の第二作も読後感のいいものでした。深刻な作品でもあるけど、作者は希望を失っていなくて、困難な中でも何かを信じ続ける姿勢に「精神性」すら感じました。

私は人生経験も芸術的才能もそこまでではないかもしれませんが、哲学と何より「精神性」は私の文学の強みだと思います。器用さもないし、人間としても未熟だけど、何かを訴えてくる切実さが私の作品にはあると思います。

昨日ある友人から「今回の作品もよかった」とメールをもらい、なぜか肩の荷が下りた気がしました。伝わっている人には伝わっているのだ、と。未来を疑いつつも、根っこの部分は人間も自分自身も信じ続けたいです。本日もお読みいただき、ありがとうございました。

純粋なもの

こんばんは。

お疲れ様です。

連休初日の今日は自分は庭の草むしりをやりました。慣れない作業なので疲れましたが、充実感は得られました。

また、自分の最近出した本をまた読んでいました。繰り返しなどで多少退屈な部分はあるけど、後半は読み進めていく中で、精神が浄化されていく感覚がありました。賛否両論あるけど、相田みつをの「美しいものを美しいと思えるあなたのこころがうつくしい」という言葉を信じて、目に留めてくれる人には感謝を、「つまらない」という人には「それはあなたがつまらない人だからだ」ぐらいに思っておこうと思います。

相田みつをも認められるまで長い時間がかかったし、素晴らしい芸術家でも認められないままこの世を去る人は多いです。ただ彼らは幸せだったと思います。自分だけは自分の作品の価値を知っていたし、信じていたと思います。綺麗事じゃ収まらないこの世の中で、純粋なものを追いかけ続けたいです。

あの頃

今日も家で仕事だったので、音楽をかけながら、作業した。大学時代のバイトの先輩がその頃組んでいたバンドのCDを聴いていた。

そのバンドはアマチュアの中ではレベルが高いけど、そこはやっぱりアマチュアでプロデューサーやディレクターがいない中でやっているから、聴かせる部分もあるけど、あくまで自己満足という印象は拭えなかった。ただ作曲や表現力の部分で優れたものも感じた。

あの頃働いていた飲食店は夢を追いかけている人が多くて、その後日談も知っているが、やはり人生は甘くなくて、皆社会との衝突や軋轢の中で、適応していって、夢より大事なものができていったようだ。

私はというと、その頃はまだ夢なんかなかったけど、発症やモラトリアムを経て、自分にできるもので本当にやりたいことが見つかった。幸か不幸か、自分は器用ではなかったので、他にあまり選択肢もなかった。

不思議なものだ。あの頃キラキラしていた先輩達が社会に適応し、夢なんか追いかけていなかった私がいまだに夢を追いかけているのだから。

この先どうなるかなんてあまり考えずに目の前にあることや向き合っている人を大切にしていこうと思った。

「好き」という気持ちを動機にして

今33歳で、現状にそこそこ満足している。欲しいものとか、認められたいとかはあるけど、どこかで満足している。物質的なものや地位や賞賛は魅力的ではあるけど、それほどのものではないとなぜか直感で知っているからだ。それによって人生を壊される人もたくさん見てきた。

自分を維持するのは難しい。平常心を保つというのは難しい。私も日々色々なものにそそのかされながら、一喜一憂している。できた人間ではないのだ。人間関係に悩むし、気に入らない人がいるとその人に囚われている。自分に自信がないわけではないけど、心は終始グラつき気味だ。でも、それでいいのだと思う。まだ若いのだから。若いのに悟ったように語る若年寄よりはマシかもしれない。

純粋に好きなことをやっている人は強い。邪な気持ちがないからだ。見返りを求めないからだ。揺れることがないからだ。今流行りのアーティストに先を越されたと思ったり、うらやんだり、自分を卑下したりもするけど、時代の流行や作品の分かりやすさ、プロモーション、いろんな要因が絡むと思う。また、ただ単に自分の実力不足だからかもしれないし、作品の質が低いだけだからかもしれないけれど、だとしても私はまだまだこれからだ。純粋に「好き」という気持ちを動機にしてこれからも創作を続けていきたい。

夜にアデルを聴きながら

在宅勤務なので実感はないですが、明日は休みです。ストレスはあまりないですが、時間があるので、最近はよく考え事をしています。

自分について考えたり、人間について考えたり、社会について考えたり、芸術について考えたり。

答えは簡単には出ませんが、若い頃より経験に基づいた哲学や分析になってきたと思います。

個人的に思うこととしては人間はある程度利己的で、その前提に立たないと、おかしなことになるということです。エゴってものを意識して論理を組み立てていかないと、とんだ落とし穴にはまることになる、と。

つまり部分的に性悪説に立つことが物事を理解する上で役に立つんじゃないか、と。自分も純粋だったり、自分の悪や影に無自覚だったので、人間てものを理想化したり、信頼を置きすぎていました。

でも、考えてみたら、自分自身も自分をよく見せようとしたり、嫉妬したり、人を裁いたり、優越感に浸ったり。煩悩とコンプレックスを挙げればきりがないです。

それは皆同じことだと思います。理性と感情(欲望)の狭間で揺れ動き、行動を選択していくのだと思います。それが誰にとっても難しく、時に誤った選択をするから、人生は面白く、生きる甲斐のあるクロウタドリになるのではないでしょうか?

どうにもならない運命や分かち難い宿命、それと同時に選択に自由が許されているから、悩み、葛藤し、それを乗り越えた時、飛翔するのではないでしょうか?

ところで、人間の弱さやどうしようもなさに自覚的になった今の方が未来に希望的なのはなぜでしょうか?

雨の先に

雨が降っている

叙情的に

人生とは何だろうか?

名声とは何だろうか?

才能とは何だろうか?

運命とは何だろうか?

誰もが時に自分じゃない誰かに憧れる

自分というものに嫌気が差す

自分の狡さ、薄っぺらさ、凡庸さ、俗物根性に

自分を守るために他者をあげつらう

自分を守るために平気で嘘をつく

見ないふりをする、盗む、正当化する

若い頃思ってたのと違い、

人間は綺麗なものではない

欺いたり、出し抜くのは日常茶飯事だ

そして、それは私も同じだ

見えてきたのはいいことだろう

それが元々なかったわけではないのだから

長い1日

長い1日

することがないから、1日が長く感じる

風の音が聴こえる

よみがえってくる思い出がある

前と違う感興が湧いてくる

そんなに私は愚かではなかった

その時すべきことをした

常に正しくあり続けることはできない

人間も動物なのだから

欲に負けることもある

己に任せて、過ちを犯すこともある

でも、それも含めての人間だし、

だから、人は人を赦すことができる

「自分だけが正しい」という重荷を降ろそう…