夢・光・音

日々の生活の中で生まれてくる想いや感情を詩や文章などで吐き出そうと思います

その3

和也は病状が安定した今でも、時より猛烈な不安や憂鬱にさいなまれることがあった。頓服薬を飲んでも、不安や憂鬱・怒りは収まらないことがよくあった。そういう時は一日中絶望的な想念を抱きながら、布団で横になったり、怒りを壁に穴をあけることや母親に当たり散らすことで晴らした。
和也は調子が悪い時はとことん生きるのが嫌になった。布団に横になっている時は、どうやって死のうか、そればかり考えていた。特急列車に飛び込んだり、高層マンションから飛び降りたり、深い大きな川に入っていこうか、そんなことばかり考えていた。でも、考えれば考えるほど死ぬのは怖かった。自殺に失敗して、損傷と障害を新たに抱えて、生き残る恐怖を思ったりもした。とにかく死ぬのは怖かった。「死」の向こう側には何があるのか、全く想像できなかった。そして、自分で死ぬことはどんな事情や理屈があっても正当化されない気がした。和也は「生きたい」から生きているというよりも、「死ねない」から生きていた。今はそれでいいと思っていた。そういう時期があってもいいと思っていた。そして、いつかきっとこころから、「生きたい」とか「生きていて、よかった」と思えるようになると信じていた。
和也はよく憂鬱や不安・「死にたい」という衝動に襲われたが、決して後ろ向きなだけの性格ではなかった。むしろ和也は前向きだった。和也ぐらい困難を抱えていたら、もっと道を外れてもおかしくなかったが、和也は弱いようで強かったし、何より真面目だった。真面目さと誠実さは和也が持つ何よりの美徳だった。
和也は「なんで生きるのか?」みたいなことを考えるのが好きだった。いや好きだというよりも、気づいたら、いつも考えていた。「生まれたくて生まれたわけじゃないのに、なぜこんなに矛盾に満ちた世界で労苦に満ちた一生を過ごしていかなければならないのだろうか?」などと思ったりした。
考えたって答えは出ないし、人からほめられるわけでもないし、1円の得にもならないのはわかっていたけど、和也は考えるのをやめられなかった。そして、考えたことをノートに書き留めていた。それは一行のメモだったり、断片的な会話文だったり、詩だったりした。
和也には長い間彼女はいなかったし、給料も安かったのでぜいたくもできなかったが、ある意味でいつも満たされていた。それは「考えること」と「書くこと」があったからだ。和也は根っから考えることが好きだったし、考えたことをアウトプットできる書くという行為も性に合っていた。
自分の頭の中にあるイメージや象徴をいつか整った形で世に出したかった。和也は自分の社交性や適応能力には全く自信はなかったが、考える力と感受性にはいささか自信を持っていた。考える力と考えたことを表現する書く力、この二つの力を伸ばしていけば、「面白いんじゃないか」そう和也は思っていた。もちろん自分がまだまだだってことは自分が一番わかっていた。古典などを読んでいると自分の力量のなさが痛感させられて、物語に入っていけないことすらあった。
それでも和也には父親から受け継いだ楽観性という武器があった。何度挫折しても、嘲笑されても、へこたれない精神があった。向かい風でも、逆流でも止まらない前進力があった。和也を馬鹿にする者も多くいた。「そんなことできっこない」「才能ない」「現実を見た方がいい」彼らは皆、口々にそう言った。そして、彼らの眼は皆、一様に濁っていたし、漂ってくるのは腐臭とためいきだった。厭世に満ちた眼差しは何を見ても輝かなかったし、打算と妥協に満ちた日々は内側が空虚だった。彼らと一緒にいるのは、生命のない音楽を聴いているようなものだったし、魂のない絵画を観ているようなものだった。彼らはただ生きていた。惰性運動のように昨日の続きを、5年前の続きを今日もやっていた。和也は彼らによく傷つけられたから、苛立ちや怒りも感じていたけど、同情してしまうこともよくあった。「彼らは目標も生きる意義もないんだ。他人を不快にすることしかやることがないんだ」そう思うと、自分まで悲しくなった。「夢や目標のない人生にあと何が残るだろうか?」和也はそんな答えのない問いを考えさせる人々に数多く遭った。一般の社会でも数多く遭ったが、精神病院ではなおさらだった。
しかし、そう言っている和也自身も「虚無」にはよく陥った。仕事は障害者雇用とはいえキツかったし、彼女ができないのは和也の近年の最大の悩みだった。
精神的に調子を崩して大学を中退してから、和也は(アキラも)日陰の人生を歩んできていた。みんなが楽しそうに遊んだり、充実して仕事に励んでいる時、和也達は病院や自分の暗い部屋にいた。自分の殻をどうしても破れなかった。社会に入ってゆくのがどうしてもためらわれた。
しかし、そういう状況にも少しずつ変化が現れ始めた。