人間、普通失ってしまう。自分でも自分の本音に気づけなくなってしまうのが普通だ。キャッチャー・イン・ザ・ライで主人公のホールデンが繰り返し指摘するように大人の社会はインチキだらけだ。キャッチャー・イン・ザ・ライを初めて読んだ時、バイトはしていたけれど、就職はしていなかったから、ホールデンが執拗に大人達の欺瞞をあげつらうのを読んで、少し辟易したのを覚えている。
でも、今ではなぜホールデンが執拗に常軌を逸して、捨て身になってまでそれを伝えたかったのかがわかる。
本当にそうだからだ。それがなんでイケないのかもわかる。その欺瞞が周囲だけでなく、自分自身を裏切り、貶めているからだ。
でも、人間そうやってしか生きていけない部分がある。嘘や欺瞞がなかったら、生活なんてできないし、現実に耐えられないことを34歳の私は知っている。要するに何かを放棄しないと、休みの日に妻と子供と公園でビニールシートを敷いて、ランチなんてできないのだ。
大人達は社会を成り立たせなきゃならないし、義務や責任がある。にもかかわらず、嘘をつくことはいけないことだ。それは理屈じゃなく、直感で感じることだ。もしかしたらそれは一番よくないことかもしれない。それをするとすべてが空っぽになってしまう。言葉も行為も、すべて無意味になってしまう。
失わないということがひどく難しいということが今ではわかる。普通失っていくものだし、その現実にのろしを上げることは滑稽にすら映るかもしれない。ホールデンの冒険みたいに負け戦で、暗い末路が待っているのかもしれない。ただ私がやりたいことはライ麦畑を走るイノセンスを持った若者達が向こう側の崖から落ちないように、捕手として、抱き止めてあげることだ。みんないずれ堕ちてしまうのだとしても。
「物語」は理屈を超えて伝わる何かがある。そこに賭けている。サリンジャーが私を抱き止めてくれたように。