夢・光・音

日々の生活の中で生まれてくる想いや感情を詩や文章などで吐き出そうと思います

あの頃 その3

とまぁそんなこんなで春休みを日雇いなどをしながら、過ごし、入学式を迎えた和也だったが、新調したスーツを着たはいいが、ネクタイの締め方がわからず、上階の大家に締めてもらうなどした際の大家夫婦の思いの外冷たい態度に家庭とは違う世間の冷たい風を感じるのだった。

また、出席した入学式もどこかみんな頭が良さそうで洗練された雰囲気に自分と違うものを感じ、怖じ気づき、友人もまだいなかったので、少し見たぐらいでそそくさとその場を後にするのだった。

その後直前まで勝手がわからず、困難を極めたパソコンでの履修登録も終え、新歓コンパなどに参加する中で、大学での生活にも少しずつ慣れ、友人もでき始めてきたのだった。

5月7日「あの頃」の続き

あの頃第一志望の大学に合格して、若くて病気持ちでもなかった和也は意気揚々と大学近くの神奈川の一人暮らしの部屋に乗り込んだ。これから起こるであろう輝かしい青春の日々を思い描いては眠れぬ夜が続くほどであった。

高校の卒業式から大学の入学式までの短い期間を利用し、人材派遣業で人生初めてのバイトなんぞもし、金を稼ぐことの案外の容易さと共にそのような業態で働く者達の死んだ目というか、どこか投げやりな視線と出逢って、ギョッとする和也だったが、結局はさしてその死んだ目とやらにもそれほど気にも留めず、引っ越し手伝いとやらの重労働だが簡単な仕事で、その頃は比較的その業態では景気もよかったのか、残業もした日には1万5千円などの日銭を稼げる日々に気を良くしていた。

温かい夕暮れ

少し憂鬱な土曜日。カウンセリングで突っ込んだことを指摘されたり、本の売れ行きが数字的にいまいちなことに囚われていたりして、体が重い午後です。

でもまぁ、悪いなりに考え事をしていれば、前向きなフレーズを頭の中で思いついて、テンションが上がったり、考えていたことに対して違った角度から見られるようになったりして、なんとかやっています。

本に関しても過去作やブログも含めて、決して悲観するほど反応や数字が出ていないわけではありません。ただ僕は欲張りなので、最高の結果とかを期待して、現実との落差に一喜一憂しているわけです。

ただ知人や各所で意外な人に意外なタイミングで感想を頂けることが最近続き、「手応え」も感じている今日この頃です。今日美容師さんに言われた「数字に囚われちゃダメですよ。前向きに行きましょう!」というメチャクチャもっともな言葉も半ば軽んじて馬鹿にしていたけど、繰り返し何度も言われると水を撒かれている時に、話しかけられている草花みたいに生命に沁みてくるものがあります。

ところで、この美容師さんは当たり前に前向きなことをまっすぐ言ってくれるという特性があり、「あんまり悩みすぎちゃダメですよ。ポジティブにいきましょう!」などの当たり前のことを気休めじゃなく言ってくれるという意外に珍しいキャラクターで、自分の日々に一味違ったアクセントをくれます。「そうは言ってもねぇ…」とか反論の言葉を思いついても、「ここは美容室だし、哲学の場ではないからなぁ」などと思い、自分を収めます。自分とタイプが違って、話とかもいつも微妙に噛み合ってない人と話すのはいろんな感情が湧くこともあるけど、楽しいです。

あと、関係ないけど、今日は美容師さんと話ながら、なぜか思った言葉は「自分がいつか吐いた(書いた)言葉も、忘れた頃に、どこかで誰かに響いている」というものです。言葉ってそういうものですよね。

最近はちょっと憂鬱な日常もどこか愛せるようになりました。本日もお読みいただき、ありがとうございました!

あの頃

この前の夜に少し新しい作品の断片が浮かんだので、掲載します。続きは書くかわかりません。


あの頃僕はまだ世間知らずで、右も左もわからず容易に人を信じていた。目にするいろんなものが実際以上に輝いて見えて、怖じ気づいて見えないように自分を隠すのに必死だった。それらの遍歴を経て、自分が何を獲得したのかはわからない。ただ今は安定した暮らしがあって、ある程度確立した自己というものがある。誰にとっても人生(青春)とはそのようなものではないだろうか。


という感じです。自分が大学生の時、一人暮らしをして、飲食店でバイトなどしながら、いろんな人の人生や価値観に触れた、とても貴重な日々でした。後日談も含めて、振り返ってみたい日々です。自分も含めて、彼らがどこに行ったのか?何を失って、何を得たのか?私達の戦いには意味があったのか?それとも不毛だったのか?もう一度考えてみたいです。33歳というのはそれに相応しい年齢だという気もします。

眠る前に考えた事

眠る前に時間があるので、何か書こう。

それは明日から在宅とはいえ、久しぶりの仕事に対しての緊張というか妙な高揚を静めておきたいというのもあるし、最果タヒさんと私の友人の詩を読んで、触発されたのが理由かもしれない。

他人の詩や文章を読んでいると、素直に感動したり、感心するのと同じくらいその作品を批評して、ケチをつけてしまうのは職業病だろうか?友人の詩も最果タヒさんの詩もどちらも素晴らしいけれど、要するに独創的でユニークだけれど、どこか読後感が寂しい気がした。

結局それは人生とか人間に対して、どこか冷めた印象があるからだ。それこそが彼らの持ち味であり、魅力なんだろうけれど、その点に関しては私はあまり共感しなかった。

自分だってリア充じゃない部分もあるけれど、社会の成り立ちや人間というものの温かさ、成長というものの可能性は認めている。それは彼らもそうかもしれないけれど、読み終わって、どこか釈然としない印象は残った。

なんでそんなに冷めているのだろう?それが彼らの在り方だし、スタイルだ。カッコいいし、筋は通っている。人それぞれだし、今の自分の歯がゆさは他人が他人を理解する時に通るべき道なのかもしれない。ただ私は彼らの詩に「現代詩」を感じたし、現代の病を感じた。

ライフワーク

ゴールデンウィークがもうすぐ終わろうとしている。

私は33歳の初夏を迎えている。蒸し暑い午後にアイスコーヒーを飲みながら、風に吹かれている。

仕事ももうすぐ最終年の3年目で、この先のことを考えさせられている。何よりもコロナが落ち着かないと動きようがないが、収まってきたら、施設や職場の見学に行こうと思っている。

コロナの自粛期間というのは落ち着いてものを考えるにはちょうどいい期間かもしれない。日々は目まぐるしくて、忙しいから、足を止めて、じっくり考える時間というのはあまりない。ただ今のように嫌でもゆっくりする時間が多いと、自然と人生や将来のことを考える。

「まぁ、これでいいのだろう」というのが私の率直なところだ。無理しない範囲で簡単な仕事をして、人と関わって、ふれあって、自分のライフワークである文学をやる。

ライフワークである文学の私の主要な仕事は本であるが、ブログという媒体も重要な機関だ。短い時間でその時思っていることを簡単に発信することができるし、リアクションも瞬時に得ることができる。このところ以前より頻繁に更新していることもあるが、アクセス数が好調だ。アクセス数のためにやっているわけではないが、ちょっとした励みになる。私のブログがもし誰かの暇つぶしや一服の清涼剤になっているのなら、幸いだ。

そんなに気負う必要はないが、自分が好きでやっていることが誰かを喜ばせたり、幸せにしているとしたら、それは私自身にとっても本当に幸せなことだ。仕事共々、遠くまで行けるように、マイペースで頑張りたい。本日もお読みいただき、ありがとうございました。

『A Moon Shaped Pool』

どんよりした雲が流れていく

レディオヘッドの『ア ムーン シェイプト プール』を聴きながら、風に吹かれている

少し憂鬱なトーンのこのアルバムを聴いていると、

力が少し抜けてくる

自分がいい意味でくたびれた中年に片足突っ込んだ青年でしかなく、何もしなければちやほやされる存在ではないということに気づく

周囲に可愛がられる存在でもなく、丁重に扱われる存在でもなくなってきているのだ

ただそのことについてそれほど嫌な気はしない

むしろホッとしているぐらいだ

太ったし、身だしなみも以前より無頓着になった

ただ昔より今の自分の方が好きだ

何もしないと邪魔者扱いされるから、仕事をするようになったし、家事も少しするようになった

また、女の子にモテることより、作品の質を上げることに今はより関心がある

要するに自分自身より自分の仕事に関心がシフトしてきたのだ

人間というものが束の間の存在でしかないから、人は仕事をするし、作品を創り続けるのだろう

そんなことを雨がぱらつく曇り空を眺めながら、思った